テクノポップ

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'''テクノポップ'''(''Technopop/Techno Pop'')は、[[シンセサイザー]]・[[ミュージックシーケンサー|シーケンサー]]・[[ヴォコーダー]]などの電子楽器を使ったポピュラー音楽で、[[1979年]]から[[1980年]]にかけて日本で大流行した。 == 概要 == [[レトロフューチャー]]的、[[SF]]的なサウンドが特徴。 日本では1979年から1981年にかけて、[[イエロー・マジック・オーケストラ]](YMO)ブームと並行するかたちでブームとなった<ref>出典:田中雄二『電子音楽 in JAPAN』(アスペクト、2001年 ISBN 978-4757208711)</ref>。 日本の最初のテクノポップ・ブームは1980年がピークで、1983年のYMOの「散開」とともに終了した。その後2008年に[[中田ヤスタカ]]がプロデュースした[[アイドル]]グループ、[[Perfume]]が大ヒットし、このジャンルが再注目された。{{独自研究?|date=2013-11}} 英米では日本のテクノポップに似たスタイルのポピュラー・ミュージックは、[[シンセポップ]](Synthpop)、[[エレクトロ・ポップ]]と呼ばれていた<ref>たとえば[http://techno.org/electronic-music-guide/ このサイト]では[[エレクトロ|ELECTRO]]の別名とされている。</ref>。コンピュータや[[MIDI]]機器を用いて制作した音楽は特に「コンピュ・ミュージック」と呼ばれた。来日したミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。 また、欧州においては、“TECHNO POP”は異なる意味で使われていた<ref>1981年に[[キーボード・マガジン]]がクラフトワークへ行ったインタビューより(2010年1月号 WINTERに再録)。</ref>ともいう。 [[1988年]]ごろから世界的に流行している有力なダンス・ミュージックの一スタイルに[[テクノ]]がある。[[アシッドハウス]]、[[デトロイト・テクノ]]という一連の流れ(ルーツ)から生まれたものであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはないとされる<ref>[[エレクトロ]]は[[ヒップホップ]]、[[ビッグビート]]の派生ダンスミュージックで、[[ゲットー]]・[[ギャングスタ]]など反体制思想とのつながりが深い。</ref>。しかし[[デリック・メイ]]、[[石野卓球]]ら有力なテクノアーティストたちが、YMOの影響をインタビュー等で公言している。{{要出典|date=2013-11}} == テクノポップの歴史 == [[画像:Sequential Circuits Prophet 5.jpg|thumb|right|初の音色メモリ可能な[[ポリフォニックシンセサイザー]]、[[シーケンシャル・サーキット プロフェット5|Prophet-5]](1978年)]] === 最初のブーム === [[Image:Roland TR-808 drum machine.jpg|thumb|right|史上初の[[リズムマシン]]、Roland [[TR-808]](1980年)。YMOは発売前のプロトタイプ機を使用していた]] [[ファイル:YAMAHA_DX7.jpg|thumb|right|テクノポップブーム後期からバンドブーム期にかけて使用された代表的なシンセサイザー、YAMAHA DX7(1983年)]] テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の[[阿木譲]]が、[[クラフトワーク]]のアルバム『[[人間解体]]』のレビューで使ったのが初出とされている<ref>[http://allabout.co.jp/entertainment/technopop/closeup/CU20051017A/index2.htm テクノポップの起源 - All About]</ref>。この[[造語#概要|造語]]を気に入った[[坂本龍一]]がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている<ref>テレビ番組「[[新堂本兄弟]]」内のコーナー「堂本ベストヒットたかみー」より。</ref>。 1980年ごろ[[YMO]]ブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」として[[P-MODEL]]、[[ヒカシュー]]、[[プラスチックス]]が紹介された。[[プラスチックス]]は[[ファッションデザイナー]]らによって結成されたバンドで、のちの[[バブル期]]の日本を先取りしたような「軽さ」をうち出していた<ref>『コピー』という曲では欧米で悪名高かった「日本人の猿真似」について開き直っているように受け取られ、イギリスのライブツアーが当地のプレスから過剰なほどに叩かれた</ref>。[[演劇]]畑出身の[[ヒカシュー]]は、クラフトワークの『モデル』を[[能]]・[[狂言]]のような[[邦楽]]的な歌唱法でカバーした。[[P-MODEL]]はもともと[[ブラック・サバス]]と[[キング・クリムゾン]]に影響を受けた[[プログレ]]バンドの[[マンドレイク (バンド)|マンドレイク]]が、電子音とバンドサウンドを同期させたスタイルに転じたものであった。彼らに共通しているのは電子楽器の使用だけでなく「軽さへの指向」である。テクノポップは、日本にとって1970年代の文化の重さから脱出するための一つの方法論であった<ref>椹木野衣が『黄色魔術』という小論でテクノポップの「軽さ」について論じている(『テクノデリック—鏡でいっぱいの世界』椹木野衣、集英社、1996年 ISBN 978-4087741292に収録)</ref>。  ブーム期のテクノポップ・バンドとして、[[ジューシィ・フルーツ]](ヒカシューと同じく[[近田春夫]]がプロデュースしている)、[[サエキけんぞう]]率いる少年ホームランズ、[[久保田慎吾]]や[[上野耕路]]ら率いる[[8 1/2 (バンド)|8 1/2]]、少年ホームランズと8 1/2が合流したハルメンズ([[ムーンライダース]]の[[鈴木慶一]]プロデュース)、[[高木完]]が在籍した東京ブラボー、[[小川美潮]]が在籍した[[チャクラ (バンド)|チャクラ]]、[[日向大介]]率いる[[Interiors]]、[[フェアライトCMI]]を駆使しポストYMOと呼ばれた[[TPO]]、[[土屋昌巳]]・[[見岳章]]の在籍した[[一風堂 (バンド)|一風堂]]などがある。 また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』が数多くリリースされている。これらの多くは[[坂本龍一]]、[[細野晴臣]]、[[高橋幸宏]]などがプロデュースしている<ref>出典:美馬 亜貴子『テクノ・ポップ (THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES)』(シンコーミュージック、2004年 ISBN 978-4-401-61851-4)</ref>。 ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍した[[アルファレコード]]の[[¥EN]]レーベルなどがある。 この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題した<ref>出典:『はじめてのシンセサイザー』 (講談社現代新書) 古山 俊一 1988年。</ref>がお蔵入りとなり、1986年に『[[エレクトリック・カフェ]]』と改題してリリースした<ref>2009年のリマスター新装版ではタイトルを『TECHNO POP』に戻している。</ref>。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。[[バグルス]]は1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており<ref>[http://www.discogs.com/Buggles-Clean-Clean/release/160212 Buggles* - Clean, Clean (Vinyl) at Discogs]</ref>、アルバム『[[ラジオ・スターの悲劇 (アルバム)|THE AGE OF PLASTIC]]』の1999年リマスター版にも追加収録されている。 === 1980年代後半 === [[ファイル:Casio CZ-101 angled.jpg|thumb|right|Casio CZ-101(1984年)。通称[[カシオトーン]]は非常に安価だったことから、人生の石野卓球など主にインディーズ系ミュージシャンに支持された]] [[1985年]]頃に起こった第二次[[バンドブーム]]などの影響もあり、テクノポップやテクノ歌謡はメジャー音楽シーンから消えていく。この頃にテクノポップでデビューした[[PSY・S]]も、早々に「ロックバンドの音を前面に出す音楽形態」に転向している。この頃は「シンセサイザーを駆使しているがテクノポップとは異なる」音楽、すなわち[[TM NETWORK]]<ref>ただし[[RAINBOW RAINBOW|初期のTM]]はテクノポップの曲もリリースしている。</ref>、[[access (音楽ユニット)|access]]のような[[ビッグ・ビート]]や[[喜多郎]]、[[姫神]]のような[[ニューエイジ]]音楽などが世間一般に支持されていた。 一方、同時期に雑誌「[[宝島 (雑誌)|宝島]]」などのサブカルチャー雑誌に牽引されて勃興したインディーズバンドブームの渦中においては、テクノポップ色の強いアーティストが大きな存在感を放っていた。[[きどりっこ]]([[松前公高]]らが在籍)や、[[ケラリーノ・サンドロヴィッチ|ケラ]]率いる[[有頂天 (バンド)|有頂天]]らのレコードは宝島社傘下の[[キャプテンレコード]]によって全国に紹介され、また有頂天のケラが設立した[[ナゴムレコード]]に所属する[[空手バカボン]](ケラ、[[大槻ケンヂ]]らが在籍)や[[人生 (バンド)|人生]]([[石野卓球]]、[[ピエール瀧]]らが在籍)などもインディーズチャートを賑わせた。有頂天の『べにくじら』や、ケラが後に結成したユニット「ロングバケーション」の『シェリーにくちづけ』テクノポップカバーなどはメジャーでリリースされ、一般にも知られている。 また同時期にテレビゲームやコンピュータゲームもブームとなっており、ゲームで演奏されるゲームミュージック、すなわちシンセサイザー音色を活かしたインストゥルメンタル音楽に傾倒していく人々も多く現れるようになった。YMOのファーストアルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ_(アルバム)|イエロー・マジック・オーケストラ]]』では既に『[[インベーダーゲーム]]』や『[[サーカス (ゲーム)|サーカス]]』と言ったアーケードゲームの音楽がフィーチャーされていたが、1984年に細野晴臣がゲームミュージックを収録した日本初のレコード『[[ビデオ・ゲーム・ミュージック|Video Game Music]]』をプロデュースするなど、ゲームミュージックシーンの草創期からテクノポップシーンの人材が関わってゆくことになる。1985年には\ENレーベルを擁するアルファレコードにおいて、初のゲームミュージック専門のレーベルとして[[G.M.O.レコード]]も設立された。バンドブームに際しては各ゲーム会社が自社のゲームミュージックを生演奏するバンドを設立するなどしていたが、[[セガ]]の[[S.S.T.BAND]]に参加した松前公高はその流れでゲーム業界に深く関わるようになり、90年代はゲーム音楽作曲家としての活動が中心となる。 === 1990年代 === テクノポップに変わり電子音楽の主流となったジャンルの1つは[[テクノ_(ダンスミュージック)|テクノ]]である。[[1988年]]以降に世界的に流行し、日本では[[ケン・イシイ]]や石野卓球が有名となった<ref>出典:『YMO GLOBAL YMOから広がるディスクガイド』(シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年、ISBN 978-4401631162)。この本の中で、ライターの佐久間英夫は「テクノは日本で生まれたジャンルだと声を大にして言いたい」と述べている。</ref>。人生改め[[電気グルーヴ]]は、初期は[[ハウス (音楽)|ハウス]]や[[ラップ]]などに傾倒していたが、石野が[[アシッド・ハウス|アシッド]]ムーヴメントに触れた1990年代以降はテクノ色を鮮明にしてゆき、1997年に『[[Shangri-La]]』を大ヒットさせる。また細野晴臣もテクノの関連ジャンルである[[アンビエント]]に移行し、「再生」と銘打って活動再開したYMOの『[[テクノドン]]』でもアンビエント色の強い楽曲を収録している。[[808ステイト]]、[[ジ・オーブ]]、[[オービタル]]といったテクノアーティストがYMOの楽曲をリミックスする企画アルバムもリリースされた。これによってテクノポップではなくテクノが日本のメジャー音楽シーンの一潮流となり、テクノポップとテクノの両方をルーツに持つミュージシャンの存在によって両者の混同も起きるようになった。 楽器メーカーが数々のシンセサイザーを発売し低廉化・大衆化する動き<ref>当時一般の間では[[ヤマハ]]製[[ヤマハ・EOSシリーズ|EOS]]シリーズすなわち「[[小室哲哉]]のキーボード」や[[ローランド]]製[[デスクトップミュージック|DTM]]音源がよく売れていた。</ref>があったものの、1990年代末期までの間はテクノポップのリバイバル化に直接影響することは無かった。 === 2000年代 === [[ファイル:Mixingediting_Jennifer_Delano_at_home.jpg|thumb|right|1990年代から2000年代以降に一般的となった[[デジタル・オーディオ・ワークステーション|DAW]]の例。[[パソコン]]や[[ソフトウェアシンセサイザー]]を活用し、過去の名機の音色も再現可能]] [[画像:YMO2008(cropped).jpg|thumb|right|2000年代に再結成したYMO(2008年)]] テクノポップが再度扱われるようになったのは主にインディーズ音楽シーンで、いち早く[[MOTOCOMPO]]や[[Overrocket]]、[[Sonic Coaster Pop]]、[[EeL]]などがテクノポップや[[フューチャーポップ]]を手がけるようになる。さらに[[テクノ]]音楽シーンでは[[KAGAMI]]がシンセサイザーやボコーダーを駆使したテクノポップ寄りのダンス・ミュージックをリリースし人気を集める。 海外音楽シーンの影響もリバイバルに拍車をかけている。 [[2000年]]末にリリースされた[[ダフトパンク]]のヒット曲『One more time』以降、ボイスフィルター<ref>ボコーダー以上になめらかな音声を発声可能なエフェクター。Digitech社製『Talker』が有名。</ref>による機械的なボーカルが日本でも取り入れられるようになった。 [[2003年]]に[[中田ヤスタカ]]プロデュースによるユニット、[[Perfume]]が東京のインディーズレーベルでシングルを発売、この中に[[ジューシィ・フルーツ]]のヒット曲『ジェニーはご機嫌ななめ』をカバー収録。テクノポップの再アピールが目立ち始める。また同年[[ファミコン]]20周年記念に伴い同機種の再アピールがゲーム業界を中心に行われた事と平行し、1980年代のゲームマシンを用いた[[チップチューン]]への注目も高まった{{要出典|date=2010年4月}}。 [[2008年]]に[[Perfume]]のアルバム『[[GAME (Perfumeのアルバム)|GAME]]』が、「テクノポップ・ユニット」と称されるユニットとしては、YMO以来4半世紀ぶりにオリコン週間チャート1位を記録した。近年のテクノポップムーブメントは、中田ヤスタカに負うところが大きいが、「テクノポップ第二世代」を掲げる[[Aira Mitsuki]]、[[Sweet Vacation]]などを初めとする数々のフォロワーも現れ、テクノポップへの関心が高まっている。また、「キラキラ系」「ピコピコ系」「乙女ハウス」「フレンチ(エレクトロ)ハウス」など様々な分類がなされ、ジャンルの統合、細分化が起きている。 これら一連の動向とは趣向が異なるものの、NHKのインディーズバンド勝ち抜き番組『[[熱唱オンエアバトル]]』での[[装置メガネ]]の数回に渡る全国放映や、松前公高による『[[おしりかじり虫]]』<ref>[[うるまでるび]]作詞作曲、[[松前公高]]編曲。</ref>のヒットもテクノポップ・リバイバルに貢献した出来事の1つである。 インディーズ音楽シーンにおいてもシンセサイザーやPCのさらなる普及により、[[アーバンギャルド]]、[[FLOPPY (ユニット)|FLOPPY]]、[[pLumsonic!]]、[[Jaccapop|JaccaPoP]]などのテクノポップアーティスト、[[T4P records]]や[[ウサギチャンレコーズ]]などの専門レーベルが活躍している。 == テクノポップ周辺の音楽について == === テクノ歌謡 === {{Main|テクノ歌謡}} 歌謡界でもっとも初期にシンセドラム([[:en:Electronic drum]])を使用した楽曲は[[ピンク・レディー]]『[[サウスポー (ピンク・レディーの曲)|サウスポー]]』(1978年3月)であり、もっとも初期に「イエロー・マジック・オーケストラ」を「編曲」に起用したのは、近田春夫『エレクトリック・ラブ・ストーリー』(1979年)である。[[筒美京平]]が初めて手がけた「テクノ歌謡」が、[[榊原郁恵]]『ROBOT』(編曲[[船山基紀]]、1980年6月1日)である。このあたりから「テクノ歌謡」は出現する。 この当時のシンセドラムは、アメリカのPOLLARD社のSYN-DRUMS。そして日本製のULT-SOUND(アルトサウンド)といった機材であり、本格的ドラムセットの体をなすというよりは、あくまでも効果音的な使われ方をしていた。今の電子ドラムのように「ドラム・セット」然とした電子ドラムの登場は、[[シモンズ]]([[:en:Simmons (electronic drum company)]])のシンセドラム([[:en:Electronic drum]])の登場を待たねばならなかった。 [[細野晴臣]]が作曲・編曲した[[イモ欽トリオ]]の『ハイスクール・ララバイ』はミリオンセラーとなり、[[川上さんと長島さん]]『きたかチョーさんまってたドン』(作・編曲:細野、1983年)ほか、当初コメディアンに多く楽曲が提供される。その後、アイドルの楽曲でもテクノポップ調の伴奏をバックに歌唱するスタイルが確立。のちにこれらは「[[テクノ歌謡]]」と呼ばれた。当初は[[打ち込み]]演奏+生演奏で[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]やテクノを意識したものを特別にカテゴライズしていたが、その後打ち込みが一般的になってくるとこの名称は使われなくなった。 === フューチャーポップ === {{Main|フューチャーポップ}} テクノを始めとするダンス・ミュージックにメロディアスな歌詞やシンセリード演奏を加えた派生音楽の1つ。『YUMEGIWA LASTBOY([[SUPERCAR]]、映画「[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]」の挿入歌)』が有名。他に[[RAM RIDER]]、[[元気ロケッツ]]などが有名<ref>中田ヤスタカがクラブDJを始めて以来の、同者が手掛ける音楽に対してそう呼ばれることもある。</ref>。 === チップチューン === [[File:Chiptune-Setup-Game-Boys.jpg|thumb|right|[[チップチューン]]を演奏する際の機材構成の例。[[ゲームボーイ]](1989年)の内蔵音源を楽器として使用]] {{Main|チップチューン}} [[ファミコン]]など[[FM音源]]以前のゲーム機・PCの音源([[Programmable_Sound_Generator|PSG]]・[[波形メモリ音源]]など)をメインに用いた電子音楽の1つ。日本では[[YMCK]]の他、[[桃井はるこ]](代表曲・『ワンダーモモーイ』『きみはホエホエむすめ』)や[[高橋名人]](代表曲・『[[スターソルジャー]]』)などのチップチューン伴奏によるテクノ歌謡が有名。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アルファレコード]] * [[テレックス (ベルギーのバンド)|テレックス]] ([[:en:Telex (band)]]) * [[中西俊夫]] ([[:en:Toshio Nakanishi]]) * [[立花ハジメ]] == 外部リンク == * [http://allabout.co.jp/entertainment/technopop/ [テクノポップ]All About] {{DEFAULTSORT:てくのほつふ}} [[Category:テクノポップ]] [[Category:ロックのジャンル]] [[Category:音楽のムーブメント]] [[Category:電子音楽]]